EXECUTIVE BLOG
2019.8.14
高光産業株式会社 妹尾八郎
昨日からの続きです。
終戦記念日も近いと言うこともあり
少し ビジネスから離れて 戦争体験談を書かせて頂いてます。
昭和は 戦争の時代で 平成は 幸いの事に日本は一度も戦争に巻き込まれずに
済みましたね。
これは 戦争を体験した方々が 二度と悲惨な戦争は起こしてはならないと言う
気持ちをもっていからだと思います。
今では 戦争を知らない世代が殆どですので あの悲惨な戦争を語り継ぐ必要もあると思います。
私も 父から戦争の話を聞くことがありましたが 実際戦地に出向いた方は 戦争の多くを語ろうとしませんね
よく語る人は 自分が戦地に赴いてないので 悲惨な現場を見ていませんので
勇壮な英雄伝を語っているのでしょうが 実際間近で戦友をなくした本人は 思い出すのも嫌なのではないでしょうか?
昨日も書かせて頂きましたが 私の父も 当時旧制高校時代に 学徒出陣の命令を受け
学業半ばで 軍隊に入隊することになるのです。
これは 強制ですから どんなに 勉強がしたくても それを放棄して戦地に赴かなくはならないのです。
まあ 今の方は 旧制高校とは何かすらご存知ない方と思います。
が どんな学校だったかと言うと、
我が国にとって有益な人材を育成するために、数限られた帝国大学へ行く前の教育を施す機関のこと(男子だけ入学が許される)です。
当時は 第一高等学校から 第八高等学校まであったのです。
因みに、たとえば、第一高等学校は、今の、東京大学教養部であり、
第三高等学校は、今の京都大学教養部であるように 高校と名前がついていますが
大学の教養部みたいなところと思えば良いかと思います。
戦後 この旧制高校の制度は無くなりましたが
昔を懐かしむOB達が 旧制高校の集まりに生き残った方が参加されていました。
その時 各旧制高校の校歌を皆で歌うのですが
それを唄うときは 皆涙を流していました。
それは 多くの友人を戦争で亡くした思いが蘇るからだったと思います。
父は 招集されたあと 予備士官学校で士官としての訓練を受けて
そのご 帝国陸軍台湾軍司令部 後に 大日本帝国陸軍第10方面軍に配属されたのです。
この第10方面軍とは
第二次世界大戦末期絶対国防圏の要石とされたサイパン陥落後、
台湾方面の戦力増強のため1944年(昭和19年)9月22日に台湾軍の廃止と伴に新編され、連合国軍の台湾上陸に備え台北に在った軍隊です。
しかし
連合軍の台湾上陸は無く交戦すること無しに終戦となったのですが、
連合軍は沖縄本島に侵攻して 沖縄が今でも語られているように物凄い激戦地となるのです、大勢の沖縄県民も犠牲になりましたが
第10方面軍隷下の第32軍部隊は全滅したことは周知のとおりです。
配属先が 台湾ではなく沖縄であれば 父も生き残っていなかったと思います。
そのことを思い 旧制高校の集まりの時に涙したのでしょう。
当時米軍は 台湾には上陸しませんでしたが
沖縄へ援護に向かう部隊の移動を阻むために 港に停泊している輸送船を 次々に
撃沈していったのです。
それで 沖縄に援軍として向かう父たちの部隊は 輸送船が無くなったために
台湾へとどまる事になり そこで 終戦を迎えることになるのです。
当時の機銃掃射の話や 防空壕に逃げ込んで 敵の攻撃が終わり 外に出て
周りの防空壕を見てみると 爆弾で破壊され 中に逃げ込んでいた戦友はそこで
戦死していたそうです。
こんな話を 戦後 息子や孫たちには話をしたくなかったのだと思います。
ただただ 戦争は駄目だ 平和に反映させるのが自分たちの使命であること
常に話していたのを思い出します
明日は 終戦記念日ですね
平和を一日祈りたいと思います。