EXECUTIVE BLOG
2023.1.6
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 正月名物の 箱根駅伝の話でした。
最近では 中継は勿論 ニュースでも取り上げられていますが
私が高校生の時代までは テレビ中継も行われていなかったのです。
早稲田の瀬古選手が出場したくらいから 人気が高まったのではと思います。
一月の2日3日にするのにも理由があって この日程であれば交通規制が
し易いと言う事だからそうです。
今日はこの箱根駅伝の歴史についての話になります。
1920年に初開催された箱根駅伝は3人の若者の熱い思いで実現したと言われています。
そして箱根駅伝自体はその3人の若者が構想した大会の予選大会としての意味合いがあったというのです。
実は箱根駅伝は ある大会の予選大会として企画されていたのです。
その箱根駅伝を構想した3人の若者は、
金栗四三さん(ストックホルムオリンピックマラソン代表、後にマラソンの父と呼ばれる)
沢田英一さん(明治大学に在籍し札幌~東京間を22日かけて走破)
野口源三郎さん(後にアントワープオリンピック主将になる)
と言う3人で。 彼らは小学校の運動会の審判員として招かれ、
その時の3人の何気ない会話から、箱根駅伝の構想ができたと言われています。
テレビドラマでも有名になった金栗さんは
1912年のストックホルムオリンピックで途中棄権してしまい、
その時に世界との差を痛感し、
その後「世界で通用するマラソンランナーを育てたい」と考えていたのです。
そこで
「世界で勝負できるランナーを多く育てるには駅伝が良いのでは?」と
運動会の時に話をだして、そこから駅伝の構想になっていったと言われています。
その時の話の中で アメリカ横断長距離駅伝を行いたいとの話で盛り上がったようです。
なぜアメリカでというと、
沢田さんは札幌~東京、金栗さんは下関~東京間を走破しており、
日本は走りつくしたので アメリカで挑戦したいと考えたようです。
その後3人は各所に説明してまわるのですが、
アメリカ横断駅伝レース自体の発想はどこも驚かれていたそうなのですが、
当時の報知新聞がこれは面白いという事で資金調達もしてくれるようになったと言うのです。
そこで持ち上がった話が、
アメリカ横断レースの予選会が必要だとなったのです。
日本よりはるかに面積が広いアメリカを横断するには、過酷な自然状況が想定されます。
東京~水戸間なども予選大会の候補として話し合われたようですが、
「平坦すぎる」と言う理由で却下されたそうです。
茨城県民としては 残念な話ですね。
アメリカ大陸のロッキー山脈を越えなければ横断はできませんから
平たんではなく 過酷な場所を選らば無ければなりませんでした。
他の候補として平坦ではない東京~日光間も候補としてあがったそうですが。
これは交通の利便性が悪いという理由で却下されたようです。
あれこれ候補地を探しているうちに
平坦でもなく交通の利便性も良い東京~箱根間が選ばれましたのでした。
箱根の山は天下の嶮と言われていますので、
ロッキー山脈などアメリカの過酷な自然状況考慮すると
箱根が一番最適だとなったようです。
後になってしまえば 駅伝と言えば箱根だと言う感じですが
最初に決めるのは大変だったと思います。
しかし 北海道の日高山脈越えとか 奥羽山脈越えなどの候補はあがらなかったのでしょうか?
いずれにしても 箱根駅伝は国民的行事になっていますが
そもそも 駅伝って 箱根が最初だったのか??
そもそも 駅を伝えるってどういう事???
と
疑問が湧いてきますね
その話は 明日に続く、、、。