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社長&顧問ブログ

2024.4.16

西郷さんと庄内藩

 

 

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 西郷隆盛の遺訓を 庄内藩の方々がまとめて

西郷南洲遺訓という 本にしたと言う話でした。

 

それまでは 西郷さんは 明治政府に反旗を翻した人物でどちらかと言うと

悪人のイメージが有ったものを 庄内藩の方々のおかげで 後世に英雄として

名を残す事になったのです。

 

しかし 不思議なのか 薩摩藩と庄内藩は敵対同士でした。

会津藩が長州藩に攻め込まれ その遺恨が21世紀になってもいまだに残っているのに対して

薩摩は庄内藩を攻め落としたのにも関わらず 広く庄内の方々に慕われているのは不思議と思う方が多いかと思います。

 

そのあたりの謎解きのはなしに進みます、、、、。

 

薩摩藩と庄内藩は幕末には敵対関係にありました。

庄内藩は幕府方として当時、江戸市中取締の任に当たっていました。

今で言う所の警察的な働きを受け持っていたのです。

 

薩摩藩は倒幕を目指していて 江戸総攻撃の口実が欲しかったので

これが西郷さんの考え指示だったかははっきりしませんが、

とにかく浪士を集めて江戸で騒動を起こさせました。

騒ぎを起こした浪士たちが逃げ込んだのが江戸薩摩屋敷だったため、

そこまで追いかけてきたのが庄内藩の藩士氏です、

将軍慶喜からは 自重を命じられていましたが 江戸で暴れまくった悪党どもが

薩摩藩邸に逃げ込んだとあっては 見逃すわけにはいきません、

 

それで 薩摩藩邸に火をつけて焼き落としてしまったのです。

 

この事件は江戸総攻撃の口実を作ることになり、戊辰戦争のきっかけとなりました。

 

長州藩は積年の恨みを晴らすために会津藩を討つことを主張し、戦争は北陸・東北・北海道へと拡大していきました。

 

戦いに敗れた会津藩は長州藩から人間がする事とは思えないような虐待を行いましたね、

 

戦いに敗れた庄内藩も会津と同じ様に厳しい処罰が下ると覚悟していたのですが、

西郷さんの庄内の殿様や武士や庶民に対する処遇は類を見ない驚くほど寛大なものだったのです。

 

それに感激した庄内の人たちは、ぜひ西郷さんの教えを受けたいと、

明治3年から7回にわたって鹿児島まで来て学ばれたのです。

 

こういう経緯があるため、山形の人たちの西郷さんに対する思いは非常に強く、

明治22年2月11日に憲法発布の恩赦で西郷さんが赦免されると、

すぐ翌年に『西郷南洲翁遺訓』を発行して、

全国にこの教えを広めて行くことになり  日本中の人が 西郷さんの

教えを知る事になったのです。

 

この教えの中でも 一番有名なのが

アレですよね、、、

あれとは何か????

 

 

明日に続く、、、。

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