EXECUTIVE BLOG
2021.12.22
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 銀座で見つけた踏切の話でした
普段は気がつきませんが 少し注意して歩いていると
いろいろなモノが目に入り 興味も湧いてきますね、
特に東京は 江戸時代から色々な歴史がありますので
名所旧跡が数多く残されています。
そして 興味あるものを一方的に見るのではなく 反対側からも見ると
又 色々な事が分かって面白いですね、
先日から書いている 真珠湾攻撃の話も 日本側から見るのと米国側から見るのでは
考え方の違いがわかりこれまた興味ある話になりますし
相手に先制攻撃させておいて 世論を喚起させてから 戦争に打ってでるのは 米国の
常套手段ではと思ってしまいます。
アラモの砦もそうですし スペインとの戦争の時もそうでした そして 真珠湾
その後は ベトナム戦争のきっかけを作った トンキン湾事件もそうですし
もしかしたら ニューヨークの9,11テロ攻撃もそうだったのかもしれませんね
真実は分かりませんが 違う角度で見ると見えないものが見て来るのでしょうか、
と言うわけで 先に進まなければなりませんが
先日から書いている 忠臣蔵の話は 我々庶民派 赤穂浪士が主君の仇を討つべく
吉良邸に討ち入りに入る話で 吉良の首を落とした時は 庶民は喝采だった感じです。
しかし 吉良公は 本当に悪者だったのか? と言う視点で見てみるのも
面白いのです。
元禄14年3月14日、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で、高家肝煎・吉良上野介に斬りかかったのです。
この時代は喧嘩両成敗で双方切腹という裁きが慣例であったのですが、
何故か上野介には何のお咎めもなかった事が恨みをかったのです。
江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している最中であったため、
場所柄もわきまえず刃傷に及んだ浅野内匠頭に第5代将軍・綱吉が激怒して即日切腹、
浅野家は所領の播州赤穂を改易とされたのでしたね。
現場にいて内匠頭を取り押さえた梶川頼照という旗本は
「内匠頭に斬りかけられても吉良様は一切刀に手をかけていない」
と証言したというのです。
この証言があったことで上野介はお咎めなしとなり、
殿中で手向かいしなかったことは立派であると褒め称えられ、
将軍・綱吉は見舞いの言葉までかけたというのです。
上野介がこの時、将軍・綱吉から厚遇されたのは理由があるとされているのです。
そもそも吉良氏は清和源氏の流れを汲む名門で、
室町時代には「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われるほど高い家格を誇っていたのでした。
更に、江戸時代には上野介の祖父が徳川幕府の儀式や祭礼を司り、朝廷との連絡や交渉を努める「高家」に就任しているのです。
上野介は吉良流と呼ばれる高家の流儀を受け継ぎ、
綱吉が将軍宣下を受ける時に取り次ぎを担当したのでした。
43歳になった時に高家の中でも筆頭格の「肝煎」となり、石高はわずか4,200石の旗本だが、官位は並みの大名よりも高く、従四位上だったので、
朝廷を重んじる綱吉にとって上野介は大事な存在であったと言われています。
更に、上野介は、国許の三河では黄金堤という治水事業や新田開発、塩田開発などを行い、地元では領民想いの名君として評価されていたのです。
三河では忠臣蔵はなんと戦後まで御法度となっていたというのですから驚きですね。
そして上野介は若くして茶の湯に傾倒し、千利休の孫にあたる人物に弟子入りして独自の流派まで開いていて、
国許・三河では領民想いのお殿様で茶の湯を愛でる風流人とされ、
忠臣蔵に描かれる天下の仇役・大悪人とはかけ離れた人物像なんです。
また、2020年には上野介が二人の娘に宛てた手紙が見つかり、
上野介の子煩悩振りが伝わってくる優しい内容であったというのです。
もしかしたら 吉良公の方が正義だったかもしれませんね
という事で
色々事に興味をもつと 色々な事が見えて来ると言う話でした
明日は
ハワイの国際空港の話に戻れるのか???
それは
明日に続く、、。