EXECUTIVE BLOG
2019.10.25
高光産業株式会社 妹尾八郎です。
昨日からの続きです
広瀬武夫中佐が 後年神様にる話でしたね
人間がなぜ神様になるのか?
それだけの偉業を遂げた方だからなんですが
話は 少しそれて
清少納言 西郷隆盛 広瀬武夫 菊池寛 て
同じ祖先で繋がっているのですね
清少納言と 西郷隆盛がなぜ親戚??
との話は 今回は書きませんが
歴史を学ぶと色んな事が分かってきますよね
さて
それで 広瀬中佐がなぜ神様になったのかが 今日の話です。
広瀬中佐は 昨日から書いているように、旅順港からロシア極東艦隊を封じ込めておく作戦に従事した軍人です。
旅順港とはその名の通り旅順(現在の中国大連市)にある港のことです。
ここはロシア艦隊(通称・旅順艦隊)が根拠地としていた場所で、日露戦争で日本が勝つためには補給・戦略の面から絶対に確保しなくてはいけない場所でした。
半島と半島に挟まれた湾の入口が作戦の対象となったのです。
旅順艦隊を放っておくと、いずれ世界最強と謳われていたバルチック艦隊と合流するかもしれない。
そもそも日本軍が大陸へ乗り込んでいくため、大陸側で補給の要となる港も用意せねばならない。
太平洋戦争でもそうでしたが、これが島国ゆえの難しいところで、必ず港という拠点が必要になります。
そうした複数の理由から旅順港の奪取は必須条件だったのでした。
そもそも艦隊のいるところですから、リスクは承知の上で計画を練られます。
それが「旅順港閉塞作戦(りょじゅんこう へいそく さくせん)」です。
そして日本軍は海からの旅順攻略を諦め、陸から旅順要塞を落とそうという方針に変えるのです。
いわゆる”旅順攻囲戦”――。
乃木希典大将が総指揮を務め、乃木自身の息子や多くの将兵が亡くなったあの戦いですね。
広瀬中佐は 湾の入り口で 部下の杉野兵曹長らを連れて 船を沈める作戦に参加していました。
しかし、二人が乗っていた福井丸という船がロシア軍から魚雷を受けてしまい、沈没が明白な状況に陥ってしまうのです。
そのまま沈めると後で機密文書などが浮かび上がって敵軍の手に渡ってしまう恐れがあるため、杉野は沈みゆく船の中、自爆用の火薬を爆発させるべく船へ戻りました。
上官だった広瀬は、杉野が戻るのを待っていましたが、いつまで経ってもその気配がないので心配になり、自ら福井丸の中へ戻るのです。
現代人から見ると、なぜ上官自ら戻ったのかが不思議になるかもしれませんね。
理由と思われるものは二つあります。
一つは、広瀬と杉野はただの上司と部下である他に、性格的にも意気投合していたということ。
もう一つは、広瀬自身がこの時代としても稀に見る人格者であったということです。
例えば、拿捕した戦艦の掃除をする際「一番汚いところからやるものだ」と言って、自ら素手どころか爪でトイレ掃除をしたという話があります。
「自分で」しかも「爪」でやる人なんていませんよね。
「新入りはトイレ掃除から」というのはもしかしてここから来てるんでしょうか。
さすがに素手でやらせるような人はいないでしょうけども。
さすがにそれは今だと指導と言うよりイジメですね。
しかし広瀬はこういう人だったので、たかが部下一人とはいえ見殺しにして撤退することができなかったのでしょう。
福井丸の中を「杉野はいずこ、杉野はいずや」と呼びかけながら探したものの、
杉野は見つかりません。
三度も見回って見つからなかったので、
「もしかしたら既にどこかから流されてしまったかもしれない。あるいは、入れ違いに脱出したのだろうか?」
と考え、広瀬は船上に戻ります。
そして脱出用のボートに乗ろうとした、まさにその時。
広瀬の頭に敵砲が直撃し、帰らぬ人となってしまったのでした。
一方、杉野のほうは、遺体が見つからなかったためたびたび生存説が噂されました。
しかしどれも憶測の域を出ず、やはり広瀬と前後して戦死したものと思われます。
広瀬については「部下の身を案じたがために命を落とした」という美談から、
死後すぐに日本初の「軍神」として祭り上げられ、神社や銅像が作られたのでした。
広瀬中佐は このことから神として崇められ
生まれ故郷の 大分県竹田市に神社が創建されたのでした。
と言うことで 今回は 広瀬中佐が神になったと言う話でした。
では 明日からは この作戦の成功でどうなったのか??
この成功だけで 日本連合艦隊は ロシア最強バルティック艦隊を撃破することが出来るのか??
そこに 長くなりましたが
常識では考えられない作戦をとることになるのです
その作戦とは??
明日に続く。