EXECUTIVE BLOG
2021.10.14
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
火中の栗を拾うと 言う言葉の語源から
日露戦争における 風刺画の話になってしまいました。
風刺画は当時の世評を表していると言われますが
昨日の絵も
巨大なロシアに対して 後ろから英国が日本兵を押す姿が描かれていて
その後ろには 米国が 眺めていると言う絵になっています。
この絵の通り
日本は ロシアとの戦いが始まる事になるのです。
この風刺画を見た人々は 案の定そうなったと感じた事と思います。
1904(明治37)年2月から翌年9月まで行われた日露戦争ですが、
当時、
10倍もの国力を持つロシアになぜ勝利することができたのでしょうか?
世界中の人々は 絶対にロシアが勝つと思っていたようです。
しかし、
日本は10倍の力を持つ大国ロシアと戦火を交え、勝利を収めました。
勝因の一つは、
「どうやったら負けないか、負けないために何をするか」を皆が真剣に考えたでした。
言い換えれば、「死中に活を求めた」のです。
死中に活を求めるとは、
「生きるか死ぬか分からないが、一か八かやってやろう」という意味ではありません。
「ギリギリの状況の中で、何としてでも生き延びる道を見つける」というのが、
この言葉の真に意味するところなのです。
先日書いたブログで
お得意様の物流合理化策で NPS指導員がやって来て
倉庫にある商品在庫を見て これは 罪庫だと言われた時から
私も 死中に活を求めたと書きましたが
まさに 何としてでも生き延びる道を見つけようと その時感じて
逃げるのではなく あえて 火中の栗を拾う覚悟で カイゼン策を受け入れ学んだ事が
生き延びる道に繋がったのでした。
日露戦争の勝因は、決して闇雲に戦ったからではありません。
長期的に準備をしてきたことが勝因に挙げられています。
例えば、
当時世界最強と謳われたバルチック艦隊を破る、連合艦隊旗艦「三笠」は、
日本海海戦の時に突如として入手したわけではありませんでした。
この戦艦は
開戦3年前にイギリスから購入したのですが、
その額は88万ポンド、約850万円もしたのです。
当時の歳入が3億5000万円ほどですから、
国家予算の実に30分の1を、一隻の軍艦に充てたことになります。
逆に言えば、
それだけの財政力を明治初期から30年余りかけてコツコツと築いてきたわけです。
先を読んだ政策が実を結んだのですね
これも 先に書きましたが
少子化時代にはいり ある大学と話をしたところ
その大学が言うには 少子化になることは30年前から分かっていました
それで 30年前から対策を打っていたと言われたのですが
日露戦争の時の日本も同じで
ロシアが やがて日本に対して 侵略をしてくる可能性があると読んで
準備をしていたという事になります。
いきなり 侵略されそうになってから 慌てて準備をしようとしても
手遅れになるという事です。
今回は 火中の栗を拾う 死中に活を求めると言う話から
日露戦争の話まで飛んでしまいましたが
では
日露戦争における周到な準備は他にもあったのか?
戦艦を買うだけで勝てるわけはないのです
では
どのしたのか?
風刺画の絵をよく見ると
そこに答えがあるようです、
その答えとは、、
それは
明日に続く、、、。