EXECUTIVE BLOG
2020.11.17
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日までの話は
地元の事もなかなか知らない事が多く
妙な噂話や都市伝説に振り回されると言う話から
最恐心霊スポットとして有名な 犬鳴峠の話になっていました。
犬鳴に纏わる様々な噂話だけを信じると 本当に最恐心霊スポット
と思ってしまいますが
そこには 住人もいるわけですし
もし 自分が犬鳴出身者だとしたら そのような言われ方されたらどんな気分になるか
考えれば 勝手にその地を化け物が出るような話をするのは如何かなとおもいます
それよりも この場所が 黒田藩にとりましても意味のある場所だったし
非常に自然に恵まれて居る場所なのですから
出来れば 最恐スポットではなく 最高の観光スポットとして取り上げて
頂きたいと思います
それこそ GO TO 犬鳴 キャンペーン企画を同士で立ち上げようと
考えています
だれも怖がってしないのであれば 自ら立ち上げって企画をしようと
思うのです。
さて この地が黒田藩に所縁がある場所であることは分かったのですが
この黒田藩 幕末から明治の最初に とんでもない事件を
起こしたのです。
この黒田藩について今一度整理しますと 先にも書きましたが
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の功により、
筑前の一部を領有していた「小早川秀秋」が備前国岡山藩に移封となった為に、
代わって豊前国中津藩主「黒田長政」が同じく関ヶ原の戦功により筑前一国52万3千余石の大封を与えられ福岡藩が成立した藩なのです。
江戸期を通じて黒田家がこの地を統治し続けたのですが。
幕末に入ると、慶応元年、第一次長州征討の停戦周旋に奔走した尊皇攘夷派を中心とする勤王派が藩内の勢力を強めるのです。
勤王派は同時に三条実美ら五卿を説得し太宰府に移したことで尊皇攘夷の雄藩の一角とされるようになったのです。
しかし
徳川幕府が「第二次長州征討」を決定すると藩論が佐幕に傾き、勤王派の多くが逮捕され家老「加藤司書」をはじめ7名が切腹させられ、
「月形洗蔵」ら14名が斬首、「野村望東尼」ら15名が流刑となった「乙丑の獄」により筑前勤王党は壊滅したのですが慶応4年になると再び勤王派の巻き返しがあり藩論は勤王に転向と目まぐるしく変転して行くのです。
しかしこの黒田藩は戊辰戦争では新政府側に立つが特に目立った動きはしていないまま
明治を迎え。明治2年の版籍奉還により黒田長知が福岡藩知事となるのです。
しかし この頃は何処の藩も財政状態が厳しく
なんとこの福岡藩は当時の流通貨幣である太政官札の偽札を乱発したのでした。
これを太政官札偽造事件と呼ばれているのです。
このため明治4年最後の藩主12代「長知」は知藩事を解任されてしまい、その後
東京へ移るのですが
福岡に居ると分かるのですが 福岡を城下町と思っている人が少なく
我が殿様と言う人にもあまり出会っていません。
鹿児島の島津家や 彦根の井伊家等と比べると そんな気がしてなりません。
こういう運命をたどった黒田藩ですが 映画にもなった 犬鳴村の逆手を
取って 犬鳴村から黒田を全国に売り出すキャンペーンを行いと
考えています。
何事も常識に囚われず 人が思いつかない事を考えて行くことが
新しい発明に繋がると考えているからです。
ここらで歴史ものは終わり
またまた 麻布十番の続きに戻れるのか??
それは
明日のお楽しみ、、。