EXECUTIVE BLOG
2022.4.27
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 博多の住吉神社で見かけた 相撲像の話から
相撲と大相撲の違いから 横綱に免状を与えていた 吉田司家の話になってました。
で 今日は 銅像と言えば 上野公園の西郷さんの銅像が有名だと言う話は
先に書かせて頂きましたが
上野公園には 他にも複数銅像があるのです。
上野公園に限らず 東京都内には沢山銅像がありますが
その話は 又次回以降という事で
今日は 上野公園で見つけた不思議な銅像の話です。
私は 子供の頃、上野公園の近くに住んでいましたし 大学時代もそうだったので
上野公園には馴染みがありますし よく通っていました。
勿論 西郷さんの銅像の事は 知っていました。
しかし この春 会社関係の方と 花見を兼ねて上野精養軒で食事をすることに
なり、 西郷さんの銅像の近くで待ち合わせして
そこから 公園内を通って 上野精養軒に向かっていた時に
なりやら 小高い丘が出現したのです
その丘の上に在ったのは 大仏パコダだったのです。
パコダとは 塔と言う意味だそうで 大仏塔の事です。
こんな所に 大仏塔があるのかと思い 大仏塔と言う位なので
大仏はどこに在るのか?? と思い 探すのですが 大仏は見つからないのです
大仏と言う位ですから 大きな大仏を当然想像しますし すぐに分かると思っていました。
しかし そこには大仏は無く それでも探してみますと
代わりにあったのは 大仏の顔だけが鎮座してたのです。
大仏の顔だけが鎮座しているのを見ると非常に奇妙に見えてしまいます。
この上野大仏は顔面部しかない状態ですが、
もともと座高が約6メートルある釈迦如来坐像だったそうです。
1631年(寛永8年)に建立された上野大仏は、度重なる地震や火災などの災難により頭
首などが破損し、その都度修復されてきたそうですが、
1923年(大正12年)に発生した関東大震災により崩壊し、頭部が落下したのです。
その後は改修されることなく、大破した頭部や解体撤去した胴部以下は寛永寺により保管され、
さらに第二次世界大戦で金属が不足し、顔面部以外の頭部と胴部以下を日本軍に供出することになったそうです。
このような経緯により、上野大仏は顔面部のみが残ってたと言うわけです。
そして、1972年(昭和47年)、寛永寺に保管されていた顔面部をレリーフとして旧跡に
安置し、現在のような上野大仏になったのです。
多くの災難を乗り越えてきた上野大仏は、
顔面部のみが残るその様子から
「これ以上落ちない」という意味で「合格大仏」とも呼ばれています。
受験シーズンには合格を祈願する受験生や親などが数多く参拝しているそうです。
そして大仏山(パゴダの丘)の南側には、
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
松尾芭蕉の句に詠まれて有名な”時の鐘”がある。
この鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたそうですが 今は上野公園内にあり
現在でも朝・夕6時と正午に昔ながらの音色を聴かせてくれるそうです。
上野公園に行かれたら 是非 大仏参拝と 鐘の音を聞かれてみたらいかがでしょうか?
そして ここ上野公園には あの人の銅像もあります
何故 あの人の像が上野公園になるのか???
あの人とは??????
それは??????
明日に続く、、、、、。