EXECUTIVE BLOG
2022.12.1
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 長州言葉が 帝国陸軍の軍隊用語として取り入れられたと言う話でした。
方言の話は ここで一旦終わりで
長く日本を統治していた 徳川家に関する話になります
皆ご存知の通り
徳川家には 御三家と呼ばれる 紀州 尾張 水戸が作られました。
それではなぜ、御三家が設置されたのか、理由はご存知でしょうか。
なぜ、御三家と呼ばれ、他の松平藩と違う立場を取ったのでしょうか??
これは
宗家、徳川家において、跡継ぎがいなくなった場合、
あるいは、後継ぎが幼少で、将軍としての仕事ができない時に、
跡継ぎとして徳川家を残していくための策として作られたのでした。
と ここまでは 大体学校で習っていますので ご存知の方も多いかと思います。
では、
なぜ御三家は尾張紀州水戸に設置されたのか??は あまり知られていないと思います。
そこに置かれているのが御三家なんだと 勝手に思い込んでいましたが
立派な理由がそこにはあったのです
外様大名が、幕府に対して反乱を起こす際、
江戸へどのルートを通って侵入してくるのか?が重大な問題でした。
御三家の内ひとつを駿府城にしてしまいますと、
中山道からの侵入を防ぐことができないのです。
そのため、
家康の9男、徳川義直は東海道と中山道の交わる要所の尾張の地に
尾張徳川家 名古屋城62万石を構える事になったのです。
次に
江戸へ侵入する際、水軍によって大量の軍を移動することも考えられました。
それで家康の10男、徳川頼宣を当時の西国大名が選ぶルートとして考えられる
上方と江戸との間を太平洋経由で行き交う紀淡海峡に面する地、
和歌山に紀州徳川家 和歌山城56万石を構えることにしました。
そして
陸奥国方面に向かう東街道の要所に位置する水戸に家康の11男の
水戸徳川家 水戸城35万石を構えさせたのです。
さらに水戸藩は、
徳川将軍家の本拠たる関東の北の守りとして設置されたのですが、
江戸に近いという事もあって、いざという時に将軍家を守るという役割も課されていたのです。
また将軍家の補佐役としての役割も担っていました、
それで水戸藩主は「副将軍」と俗称されたそうです。
水戸藩の本拠たる常陸国は元々佐竹氏の領国で、
豊臣政権期に佐竹氏が担っていた役割は徳川家康の監視であったそうです。
江戸に近い常陸国に有力大名が存在する事は徳川氏にとって目障り以外の何物でもなく、それで佐竹氏を秋田に追放して代わりに信頼できる親族をこの国に配置したのです。
きちんと諸々の事を考えて 配置されていたのです。
しかし その後 御三家筆頭と言われた尾張からは 将軍は出ていません
それは何故なのか??
それは????
明日に続く、、、、。