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2022.5.2

初代会津藩主保科正之

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです

昨日までは 野口英世の人柄の話から 彼が会津出身だったと言う話でした。

その会津の人達は いまだに 昔の長州 今の山口県の事が嫌いだと言われています。

東北大震災前に 当時の萩市長が会津市長に対して 仲直りしましょうと言った所

会津市長からは まだ 120年しか経っていません 仲直りは出来ませんと答えたと言うのです。

そして 東北大震災後も 山口商工会議所の面々が 会津を激励に訪れた時も

記念撮影後に 会津の経営者たちに握手を求めた所 断られたと言う話があります。

 

戊辰戦争 明治維新から既に150年以上経ったいまでも 会津の人たちの多くは

長州を恨んでいるようなのです。

 

これは 他県の人には理解できないでしょうし 恨まれている山口県民の多くも

何故自分たちがいまだに嫌われているのかを理解してないのではと思います。

 

実際 最近でも耳にするのは 福島県の娘さんを山口の男には嫁がせないと言われているようです。

 

何故 ここまで確執が起きたのか?

 

歴史を振りかえると 色々な事が重ねっていることが分かります。

 

先ず 会津藩の藩祖が 誰だった?かという事ですが

初代藩主は 保科正之と言う方です。

 

この方を知らないと 会津藩の事 更に言うには 会津藩の悲劇は見えて来ないと思います。

 

では この保科正之とは 誰で 何をした人なのかについてです

保科正之は、江戸時代の初めに稀代の名君と呼ばれた大名でした。

会津松平藩の初代藩主であり、第三代将軍・徳川家光、四代将軍・家綱の治世に貢献した人物でもあるのです。

 

この正之は、慶長16(1611)年に二代将軍・秀忠と乳母の侍女だったお静の間に生まれた子でした。

二代将軍は正室のお江の尻に敷かれていたと言われていましたので

側室も持っていなかったようです。

しかし ある日 秀忠がお静を見初めて関係を持ったことから 正之はこの世に生を受けました。

この事は秘密だったために

正之は、武田信玄の次女・見性院と言う所に預けられ、幸松と名付けられて育ちました。

その後正之は、見性院の伝手で元和3年に高遠藩主であった保科正光の養子となり、

正光が寛永8年に死去した後にその家督を継承して、

高遠藩3万石の藩主となるのですが。

 

子供頃から 母親に強く教育を受けた事が 正之が名君と言われるまでになりましたし

また その事が 戊辰戦争でも会津藩の悲劇を生む事にもなるのです。

 

母親のお静は常々 正之に対して 将来 将軍家に敵対する藩や人物が出てきたとしても

絶対に将軍家を裏切ってはならないと教育していたのです。

 

子供の頃は今でいう隠し子的存在でしたが

将軍・家光が自身の異母弟である事に気が付いた事が起きたのです。

それは 将軍家光 つまり 秀忠の長男が偶然目黒の成就院という寺に立ち寄ったことからでした。

このとき家光一行は素性を伏して寺に立ち寄りましたが、

寺の僧から将軍家の弟君にも関わらず、不遇な身にある正之の話を聞き、

偶然その存在を知ったと伝えられています。

この時に 家光は自分に異母弟が居る事を知るのですが

家光には かつて実の弟いましたね

実は 秀忠とお江は この弟の方を将軍にさせたいと考えていたようです

 

しかし この弟はその後、、、、、、、

どうなったのか?????

 

片や 異母弟の正之の運命はどうなって行くのか????

正之の死後100年以上経った幕末に正之の子孫はどのような目に遭うのか??

 

それらは

 

明日に続く、、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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