EXECUTIVE BLOG
2022.4.25
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 二宮金次郎の話から
銅像と言えばと言う話から
福岡にある 住吉神社で見つけた 古代力士像の話でした。
何故 力士像が 福岡の神社にあるのか? と不思議でしたが
そこから色々興味が湧いて 調べてみますと
横綱は 昔は 吉田司家で決められていたという事を知ったのです。
横綱は横綱審議委員会ができるまでは吉田司家が取り仕切っていたと言うのです。
吉田司家の起こりは今から770年ほど昔、後鳥羽天皇の時代にさかのぼるそうで、
当時、源平の兵乱もおさまり、天皇は奈良朝以来久しくとだえていた相撲節会と言う行事を再興する事になるのですが、
この相撲節会とは、
毎年7月天皇が宮中に相撲人を集めて相撲大会をご覧になり、宴を開く宮中の大きな行事の一つだったそうです。
この時に越前の国から、相撲の故実に詳しい吉田家次と言う人が呼ばれて、
相撲司に命じたのが始まりなのだそうです。
以後長きに渡って相撲界の元締めとして重きをなしてきた家柄で
四代横綱・谷風梶之助と第五代横綱・小野川喜三郎に横綱免許を授与して以来、
江戸相撲では吉田司家の免許を持つ者が正式な横綱を決めて来たと言う事のようです。
昭和26年1月以後は相撲協会と吉田司家との申し合わせで、横綱授与は協会が決定し、
授与式は東京で相撲協会が行う事になり、
その際に吉田司家が臨席するかたちとなったそうです。
吉田司家から横綱免許が授与された最後の力士は、四十代横綱・東富士で、
昭和61年7月場所に横綱となった六十代・双羽黒以降は、吉田司家は臨席せず、
綱は理事長が渡すこととなったのです。
ここで 又興味が湧きて来ることがありますね
長きにわたって 横綱の免許を授与していた吉田司家は
その後 一体どうなったのか??と
それは
明日に続く、、、、。