EXECUTIVE BLOG
2021.6.19
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは IT時代におけるコンテンツ活用に関するビジネスモデルの話から
逸れてしまい
いつの間にか 沖縄での終戦時の話から
博多で見つけた 戦争を想起させる道路の話に逸れてしまいました。
戦後も76年目を迎えると 戦時体験をした方も減って来てますし
その事を語り伝える方も少なくなっていますね
昨日書いた 疎開と言う言葉を知っている方も少ないのではないでしょうか?
私は 祖父も父も軍人でしたので 当時の話は時々聞かされていましたが
流石に 悲惨な戦いの事に関しては話してはくれませんでした。
又 今では想像もつかないと思いますが
私が小学生の低学年の時までは 駅前に行ききますと
傷痍軍人と言われる人たちが物乞いをしていました
ボロボロになった 軍服などを着ていて 自分たちは サイパンの生き残りだとか
硫黄島の生き残りだと言って ある者は片手が無くある者は両足が無いなどの
障害を持つ方が殆どでした
そう言う方が 戦争で戦地に行かされて 命がけで闘った挙句 負傷して
帰国は出来たものの 今の様に障害者を受け入れる社会にはなっていなかったので
駅前で物乞いするしかなかったのだと思います。
戦後生まれの当時小学生だった我々は その奇異な姿にただ驚くばかりで
彼らの苦労を知る由も分かりませんでした。
今では 戦争もなく平和な時代ですが 戦争体験者を知っている我々が 後世に
伝えていかなければならないと感じています。
これを 先日 散歩の途中で見かけた 「疎開道路」 の標識を見つけたことで
新たに 平和を考えなければならないと強く実感したのでした。
そして 疎開と言う言葉の陰には 多くの人の 苦労と涙があったのです
昨日書きましたように 強制疎開と言って ある日軍部の命令により
生まれ育った家から追いやられ 軍によりその家を取り壊しされて そのあたりの
一家の方々はどこかへ放りやられてしまっていたのです、 むろん 補償等ない
無慈悲な扱いを受けてるわけですから その方々は一体どういう思いで家が取り壊されるのを見ていたのでしょうか?
又学童疎開は 攻撃にさらされる恐れがある地域に住む学童を 山間の田舎へ集団で疎開させて 親とも引き離されて山奥で勉強をしていたのですが
戦争も終わり 実家に帰ってみると 家は焼け落ち 家族も亡くなっていた児童も多かったそうですから 彼らは それから一体どうやって生活をしていたのかと思うと
本当に辛くなってしまいます。
そして
この学童疎開でも 一番悲しい出来事があったのです
それは 対馬丸事件です。
皇族である秋篠宮様も太平洋戦争中に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の犠牲者を追悼する集いに何度か出席されていたので、ニュースでご存知の方もいるかもしれません。
対馬丸は、疎開する子どもたちを乗せて沖縄から長崎に向かう途中に鹿児島県の屋久島と奄美の間で撃沈され、確認されただけでも、子ども780人を含む1482人が亡くなった事件です。
アメリカの潜水艦によって 撃沈されてしまったのです。
なぜ米軍の潜水艦が学童が乗っている船を撃沈したのか?
送り出した家族はこの事件を知ってどう感じたのか?
又 生き残った学童はどう感じたのか??
それは
明日に続く、、、。