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社長&顧問ブログ

2022.4.16

神様仏様稲尾様

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 福岡におおもの有名人が来たと言う話でした。

1人目がアインシュタイン

2人目がリンドバーグ

3人目がマリリンモンローでした。

 

そして 大女優のマリリンモンローが何故福岡に来たのか??と言うのが

昨日までの話でした

 

その訳は 夫であった ジョーディマジオマジオと 福岡西鉄ライオンズの鉄腕

稲尾選手と交流があったからと言う話らしいのですが

 

昨日書き忘れたので ここで追加させて頂きますが

この稲尾和久投手が かつて 「神様、仏様、稲尾様」 と呼ばれていたのです。

 

一年間の勝利数が 今では絶対にあり得ない42勝もしたのですからそれは剛腕に違いなりません。

 

ただ この 神様仏様稲尾様と呼ばれたのは 年間42勝した時に付いた名前ではないのです。

 

今日は 少し話が逸れますが 稲尾物語についての話になります。

 

稲尾が 42勝した年は 1961年でした。

稲尾は1956年に西鉄ライオンズに入団したのですが、

先ずこの1年目に21勝を挙げて新人王に輝いたのです。

 

入団当初は全くの無名だったのですが、

当時の三原修監督が春のキャンプでバッティングピッチャーをやらせてみると、

速いボールがコーナーに決まり、西鉄の強打者達がなかなか打てなかったのです。

これではバッティングの練習にならないと不満が出るほどでした。

これにより一気に稲尾の評価が高まり1軍に登用されることになったのでした。

 

しかし、シーズンが始まっても、

しばらくは敗戦処理や勝負の行方が決まってからの登板が多かったのですが、

先発投手の故障などから登板機会が増え、シーズン中盤から白星を重ねて

終わってみると21勝6敗、防御率1位にもなって堂々と新人王に輝いたのでし

そして2年目には、もうエースの風格があり、

なんとプロ野球記録となるシーズン20連勝を記録して、最終的には35勝をあげ、

投手のタイトルを総なめにし、MVPを獲得したのでした。

 

そしてその鉄腕ぶりを世に広く認めさせたのは1958年の日本シリーズだったのです。

 

相手は読売巨人軍でゴールデン・ルーキー長嶋茂雄を擁していました。

日本シリーズでは第1戦に先発をしましたがまさかの敗戦。

西鉄は第2戦の敗戦を挟んで、第3戦も敗れて3連敗を喫し、崖っぷちに立たされました。

 

それでも三原監督は稲尾との心中を選んだのです。

そして、雨で1日順延になったことがこのシリーズの運命を変えました。

 

雨が上がった第4戦、稲尾を先発に立てて勝利をつかむと、

第5戦は4回からリリーフとして登板し、

9回には日本シリーズ初となるサヨナラホームランを自ら放ったのです。

 

そして、再び舞台を後楽園球場に移した第6戦、7戦と2日続けて先発して完投勝利して、

西鉄に3年連続の日本一をもたらしましたのでした。

7戦中6試合に登板し、3戦から5連投で4勝すべてを稲尾の手で勝利をもぎ取りました。この時に、

地元新聞紙に「神様、仏様、稲尾様」の見出しが出る事になり、

後世に語り継がれることとなったのでした。

 

そして

稲尾は1961年も当時の日本記録の78試合に登板して史上最多となる42勝を挙げたのですが

更に翌年は25勝、次は28勝として

入団以来8年連続20勝以上を挙げて25歳で200勝に到達したのです。

 

これだけの活躍を行えば 神様仏様稲尾様と 呼ばれることは当然だと思います。

 

こんな選手に会いたいとディマジオも思ったのでしょうか?

 

もし 稲尾が大リーグに入団していたら どれだけの数字を挙げていたのか?と

考えたくなりますね

 

と言うことで 稲尾伝説はこれまでで

 

明日は

モンローとディマジオの恋愛秘話に続くのか??????

 

それは???

 

明日に続く、、、。

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