EXECUTIVE BLOG
2024.1.21
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日は 山形の専称寺に行った時の話しでした。
専称寺には 駒姫の菩提寺です。
そこで 姫の非業の死の話を知る事になったのです。
この話と インカ帝国との話がどのように結びつくのか 結びつかないのか?
今のところ分かりませんが、、、、
で この駒姫の父君は 最上義光です。
西日本地方に住む方は あまり最上家の事は知らないかもしれませんね
逆に東北方面の方は 佐賀の鍋島とか 山口の 毛利家の事とかをあまり知らないかもしれません。
そして駒姫の父親である最上 義光は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名で最上氏第11代当主でもあり、出羽山形藩の初代藩主だった方です。
山形の方は 山形城内に義光の銅像があるのをご存知かと思いますが 名君と言われた
君主でした。
この義光が最も愛した娘が駒姫だったのです。
この駒姫を是非嫁にしたいと求めてきたのが 当時の関白である 豊臣秀次でした。
これは 到底断れキレないと諦めた 義光は まだ16歳の娘を嫁がせることにしたのです。
本来であれば 天下人になるはずだった 秀次ですが
駒姫が秀次の所へ向かう途中
秀吉は秀次に謀反の疑いがあるとして、高野山に追放してしまったのです。
この少し前に、秀吉には待望の息子が浅井長政の娘である淀殿との間に生まれていました。実はそれ以前にも息子がいたのですが、早くに亡くなってしまったのです。
その後に再びできた息子ゆえ、秀吉のかわいがりようはものすごいものだったのです。
この息子が後の、豊臣秀頼です。
まさか生まれるとは思っていなかった秀吉は
養子にしていた秀次に、関白の座を譲り渡していました。
関白といえば、天皇陛下の後見人です。
秀吉はその座を譲り渡してしまった事を、後悔しており、自分と血の繋がった息子に権力を譲りたくなりました。
それで 謀反の罪をかぶせて 秀次を自害させてしまったのです
何と言う恐ろしい事かと思いますね、、
しかも 秀吉はこの時、秀次が自害しただけでは飽き足らず、
秀次の正室をはじめ、側室、その息子もすべて殺してしまいました。
有名な三条河原の虐殺です。
秀次には側室が数多く居て、30人以上はいたということです。
そのほとんどと秀次の子らすべてが虐殺されたのでした。
しかもそれだけではありません。
最初に子らを殺し、そして母親、側室を殺して一つの穴に入れ、そこに土を被せてから「畜生」と書かれた立て札を置いたのです。
要は 秀次と関係しているすべてを根絶やしにしたのです。
せめて 女や子供は助けなかったのかと現代の感覚では思うでしょうが
生き残してしまうと 遺恨が残り その子供もやがて大人になった時に
復讐心が芽生えて 秀頼にたいして謀反を起こすと考え根絶やしにしてしまったのです。
先日書いた 長州藩は 260年後に徳川に歯向かったわけですから 恨みと言うのは
決してなくならいのでしょうか???
この時 駒姫は まだ 秀次の元へは着いていませんでした。
ああ それなら良かった もしついていたなら
と思ってしまう所です、、、
が
それがそれが、、、
の話は
明日に続く、、、。